石原裕次郎さん 23回忌 国立競技場で

フワリ

2009年05月22日 15:40

裕次郎さん10億円二十三回忌…国立競技場に総持寺本堂!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090522-00000024-sph-ent


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癌が見つかった時に

兄の慎太郎は「本人に癌であることを告知すべきだ」と主張したが、

病の正体を告げたら自ら命を絶ちかねないと、

それを慎太郎も受け入れて告知しないことに決めたという。

しかし

10億円二十三回忌とはすごいです。



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5月22日8時2分配信 スポーツ報知

 1987年7月17日に亡くなった故・石原裕次郎さん(享年52歳)の二十三回忌法要「天国からのラストメッセージ『ありがとう』」が、7月5日に東京・霞ケ丘の国立競技場で行われることになり21日、石原プロ社長の俳優・渡哲也(67)、石原まき子夫人(75)らが同所で会見した。今回、大々的な法要としては最後となるが、裕次郎さんが眠る神奈川・鶴見の総持寺本堂を国立に再現。規格外の規模で開催される。

 国立競技場のトラックを背にしたまき子夫人は、恥ずかしそうに「いくら裕さんがにぎやかなことが好きだったとしても、ちょっとおバカだと思った」と驚いた。法要の場所は聞いていたが、詳しい内容を知ったのは前日という。

 国立競技場は裕次郎さんが闘病生活を送っていた慶応病院から見える場所。「実は(周辺は車で)走りたくなかった」というが、「(病室から)大観衆の声に興味を持ってたりしたことがあった。ありがたいし感謝申し上げる」と懐かしんだ。

 菩提寺である総持寺で営まれた十三回忌は予想をはるかに上回る13万5000人(鶴見署調べ)が殺到。混乱を招いたため、十七回忌は東京・新高輪プリンスホテルにファン3万人を無料招待して行われた。

 最後の大規模法要として、総持寺で執り行うことも検討されたが、高齢になったファンの健康や交通、周辺環境を考慮。法要の場所として誰もが想像もし得なかった国立競技場での開催を決めた。

 驚くのは場所だけではない。トラック部分に約200トンの鉄骨を使い、高さ約17メートル幅約50メートル、ほぼ原寸大の総持寺本堂レプリカを10日間かけて建築、本尊の釈迦如来も運ぶ。奈良時代から1300年の歴史ある総持寺で持ち出されるのはもちろん初めて。160人の僧侶も出向く。

 毎度毎度、無料の大盤振る舞いの記念品は抽選で5万人にプレゼント。十七回忌の時は歌あり踊りありのイベント満載だったが、今回は渡らによるあいさつはあるものの、大きな演出はないという。石原プロの番頭・小林正彦専務(73)は、総費用について「大きな映画が軽く1本作れるぐらい」。国立の使用料や本堂の建設費、人件費など、少なく見積もって10億円は超えそうだ。

 没後22年でこれほどの規模で法要が営まれるのは、世界的にも例がない。改めて裕次郎さんの偉大さが注目を集めそうだ。

 ◆天国からのラストメッセージ「ありがとう」石原裕次郎二十三回忌 午前7時開場(閉場は午後10時)、午前9~10時までセレモニー、午前10時から献花・記念品引き換え
参照記事http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090522-00000024-sph-ent



アニメ映画『わが青春のアルカディア』で

初代ハーロックの役で声優デビューしたそうで、

その出演時間が約5分間であったにも関わらず

出演料が1000万円以上であったため話題となったとか。

何をするにも大型、

さすが石原裕次郎さんです。




Wikipedia より


石原裕次郎

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年12月28日 - 1987年7月17日)は、日本の俳優・歌手、石原軍団初代総帥、石原プロモーション創始者(代表取締役社長兼会長)。永遠の大スター(日本人が最も愛した男)と称されることがある。担当マネージャーは関町進。


生い立ち

海運会社・山下汽船(現:商船三井)に勤める父・石原潔 母・光子の次男として生まれる。現東京都知事の石原慎太郎は実兄。父の転勤により、兵庫県神戸市須磨区→北海道小樽市→神奈川県逗子市、と港町に育つ。稲穂国民学校時代ではアカシアを好み、逗子中学時代からバスケットボールに熱中し、将来はオリンピック出場を夢見るスポーツ少年だった。また近所と野球チームを結成し、レフトとして活躍したことがある。

慶應義塾高等学校を目指すが受験に失敗し、当時慶應高校の予備校的な存在だった慶應義塾農業高等学校に籍を置くが、悪友たちにそそのかされ酒と女とケンカ三昧の日々に入る。もともとは海と模型飛行機作りが趣味でこの頃はかなり裕福な生活を送っていたようで、裕次郎16歳、兄の慎太郎が18歳の時に父より当時の日本では珍しかったヨットを与えられるほどであった。これをきっかけに、裕次郎はヨットに情熱を傾けるようになった。父の影響と海への憧れから将来は世界を股に駆けるような船乗りになることを希望していた。

1951年に慶應義塾高等学校に入学し再びバスケットボールに熱中するが、左足膝に大怪我をしたため選手生活を断念せざるをえなくなった。

17歳の頃、父親の突然の死により性格がぐれ、再び酒と女、そして喧嘩と麻雀三昧といった放蕩の日々に入る。

しかし一家の主を失った石原家は困窮に陥っており、1955年の兄慎太郎の芥川賞受賞がなければ一家は裕次郎の為に破産していただろうと後に慎太郎は語っている。


エピソード

食通としても知られ、懐石料理・カレーライス・ビーフステーキなどを好み、洋和食問わず好物が多かった。また、料理好きでもあり、自宅には自身の調理器具もあったほか、別荘やヨットハーバーでバーベキューや手弁当を楽しむ写真も数多く残されている。
チェーンスモーカーであり、大病を患う前は、休暇中には朝食にビールを飲むほどの酒豪であった。また、日本酒も好み、宝酒造のイメージキャラクターを務め、企業のイベントに参加するなど親密な関係を築いた。
「身長182センチ・体重75キログラム・股下90センチ」と、日本人離れした大柄な体型であると宣伝されたが、公称178cmの長嶋茂雄と並ぶ写真をみると、その公称身長には疑問もある。兄の石原慎太郎は公式HPで181cmとしている(小樽駅の4番ホーム「裕次郎ホーム」には等身大の裕次郎が置かれ身長182センチ・体重75キログラム〔1978年当時〕となっている) 。
別荘を山中湖、石和温泉にもち、芦原温泉の定宿で寛ぐ事が晩年多くなった。
レコードが擦り切れるほどジャズ・山中節を聞いていた。
『ガッチャマン』は日活版(実際には作らなかった。※主役は裕次郎)を想定して作られたとされている。
一度失踪した経験がある。実際はホテル『ブルースカイ』の打ち上げ中急行「銀河」に乗り京都の都ホテルそして神戸のオリエンタルホテルを経て松廼家に滞在した。事実、スタッフや関係者が捜索し、多大な心配をかけたといわれている。
1965年にピストル密輸事件で家宅捜索され、拳銃不法所持問題で謝罪する(主犯格は百瀬博教)。
1981年の手術後、「喉が渇いているので、ポカリスエットが飲みたい。」と筆談で懇願し、売上が急増。大塚製薬からはトラック1台分のポカリスエットが病院に届けられたといわれている。
1980年頃、裕次郎は視聴率の件でニールセンを肯定しビデオリサーチは電通が影響している理由で否定するスタンスをとっていたという。
紅白歌合戦には毎年辞退していたといわれている[要出典]。
三回忌や七回忌、十三回忌などの節目の日や、裕次郎の命日近くになると必ずと言っていいほど雨が降ったことから、森田正光が「裕次郎雨」という単語を季語にすることを提唱し、俳句の募集を行っている。
メキシコオリンピックやビートルズ日本公演を観戦したといわれている。
日活の堀久作社長は「赤い波止場」のラストシーンで手錠をかけられたことを受けて「手錠をかけられた馬鹿者がいる」と年頭の挨拶に出るほど激怒したことがある。




総持寺

總持寺(そうじじ)は、神奈川県横浜市鶴見区にある曹洞宗大本山の寺院。山号は諸嶽山(しょがくさん)。本尊は釈迦如来。境内に鶴見大学を運営。


奈良時代 行基によって能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)に、諸嶽寺として創建。
平安時代 真言律宗に所属[要出典]
元亨元年(1321年) 曹洞宗4世の瑩山紹瑾が、諸嶽寺の住職定賢の帰依を受け、總持寺と改名。
元亨2年 後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称する。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山となる。
住職を5つの塔頭からの輪番制とした。
明治31年(1898年) 火災で焼失
明治44年(1911年) 現在地に移転。現在、旧地に總持寺祖院(石川県輪島市門前町)がある。




国立競技場

国立競技場(こくりつきょうぎじょう)は、独立行政法人日本スポーツ振興センター(NAASH)が管理運営する国立霞ヶ丘競技場・国立代々木競技場・国立西が丘競技場(現国立西が丘サッカー場)の総称。

かつては特殊法人国立競技場が管理運営。


概要

国立競技場は1964年の東京オリンピックの競技会場として建設された。現在でも各国立競技場にはオリンピックマークと"Tokyo 1964" を合わせたエンブレムが残っており、東京オリンピックの会場であったことを偲ばせている。国立競技場で開催された競技は以下の通り。

メインスタジアム(国立霞ヶ丘陸上競技場)-陸上、サッカー(決勝戦、3位決定戦)、馬術(大賞典障害飛越)
秩父宮ラグビー場-サッカー
代々木会場(国立代々木競技場)
第一体育館-水泳
第二体育館-バスケットボール
西が丘会場(国立西が丘競技場)-サッカー
国立競技場は首都東京にある上に立地も良いことなどから、各種競技の全国大会の決勝などに使用されることが多い。競技者からみれば、これらの施設は憧れの的である。その為、国立競技場は「聖地」と呼ばれる。また国立競技場でプレーした経験のある競技者といえば、各競技で相当レベルの高い部類に入る選手ということもできる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090522-00000024-sph-ent

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